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【連載:MOTリーダーのドラッカー「マネジメント」入門 (13)】

機能する組織の条件(1)
〜より良い社会をつくる組織構造の原則〜

経営・情報システムアドバイザー
森岡 謙仁  
(アーステミア有限会社 代表取締役)  
 
ドラッカーに対する代表的な誤解の一つに、「ドラッカーは、いわゆる学者であって、組織人としてマネジメントを経験していない」というものがある。ところが実際に彼の生涯を調べてみると、ドラッカーが「マネジメント」(注1)を体系的にまとめあげた背景には、ドラッカー自身の営利組織と非営利組織での体験が無関係ではなかったことが、明確である。

■ドラッカーが体験した最初の組織

ドラッカーが最初に体験した組織は、プライベートなコミュニティであったと思われる。8歳の時に精神分析学の父と呼ばれたフロイトと握手をさせられた。(注2)この背景には、ドラッカーの父母が毎週のように自宅で開くパーティーに集まるコミュニティがあった。学者、芸術家、政治家など知識人の情報交換の場でもあったこのホームパーティーで、ドラッカーは社会との関わりを強く意識せざるを得なかった。と同時に学校があった。私立小学校から進学予備校のギムナジウムに入学したが、ここでは、生涯忘れられない二人の恩師(注3)に出会う。13歳のときには、市民によるデモ行進の先頭で赤旗を持って行進したりもした。(注4)そして、父親の薦めに反してハンブルクの夜学に通い、勤労学生になったのが17歳であった。ほとんど給料もない貿易商社の見習いとなったドラッカーは、営利組織の一員となった。その後、フランクフルト大学の法学部の夜間部に移ったのを機会に、米系投資銀行の証券アナリストとして就職した。そこには当然のことだが、上司がいて社長がいた。その後、世界大恐慌(1929年)のきっかけとなる世界的な株暴落の影響を受けて、失職したドラッカーは新聞記者となる。ここでは編集長という上司の下で働く組織の一員であった。このような体験を通じて、当時20歳前後になっていたドラッカーは、個人と組織と社会について強い関心を抱いていったに違いない。

■マネジメントの着想を具体化した経緯

ドラッカーは、ナチスが圧制する社会制度から逃れてイギリスに行く。その後、アメリカに渡って、「自由で機能する社会のあり方」についての本を2冊書く。その1冊が、「経済人の終わり」(1939年)であり、もう1冊が「産業人の未来」(1942年)である。
実は、これらの書物の中に、ドラッカー「マネジメント」という巨木の根がある。ドラッカーが少年期、青年期を過ごした時代は、自由主義が脅かされた時代でもあった。今日の日本とは大きく違う。その後、ドラッカー33歳(1943年)のとき、GM(米ゼネラルモーターズ)から自社を調査して欲しい、との依頼を受けた。18ヶ月間をかけて、膨大な調査報告をまとめた経験は、マネジメントの着想を具体化した最初の仕事になった。この調査報告は、その後、刊行された著書「企業とは何か」(1946年)のもとになった。(注5)そもそもGMからの企業調査の依頼は、「産業人の未来」を書いた実力が買われてのことだった。その後、ニューヨーク大学の初代経営学部長に就任し(1949年)、学部の新設に関わることになる。ここでも「マネジメント」を体験することになった。このようにして、自由主義を守るという思想と産業社会を成り立たせる組織運営のための「マネジメント」は、ドラッカーの中で体系づけられて行った。(ドラッカーが「マネジメント」を着想する20代までの経緯については下記の図を参照されたい。)

■企業組織に対する社会の要求

人が生きていく上で必要な社会とのつながりを持つ代表的な場が企業組織であることは、今日でも変わらない。自由な社会を実現するためには、自由な企業組織が必要になることは言うまでもない。ドラッカーはこのような社会を実現するには、どのような条件が必要かを研究した。彼は、この答えを出すために次ぎの3つの質問を自らに問うのであった。(注6)「そのような組織が存続するには何が必要か」「そのような組織が機能するには何が必要か」「適切なリーダーシップが確立されるには何が必要か」というものであった。当時のアメリカ最大の自動車メーカーであるGMからの調査依頼は、ドラッカーの企業組織の研究にとって格好の材料が提供されたことになる。
ドラッカーが企業に興味を持った最初の動機は、政治や社会学の視点からだった。つまり、アメリカにおけるGMの経営が、「機会が平等であり、報酬は努力と能力に応じて与えられる。」「社会の一員としての位置づけと役割と尊厳が与えられ、自己実現の機会を与えられる。」「全員が対等のパートナーとして協力し合う」という3つの約束が果たされているかを調べるという動機であった。自由で機能する社会を実現するには、GMが、自由で機能する組織でなければならないからである。

■一人ひとりの働きが意味を持たなければならない

「自由で機能する社会」を実現するためには、「一人ひとりの人間の欲求と行動を社会的に意味あるものとしなければならない」(注7)のであり、仕事をすることを通じて、個人は社会との絆を自覚できなければならない。またドラッカーは、利潤動機(儲けたいという動機)についても頭から否定はしない。むしろ、「政治上の最大の脅威たる権力による暴政への防備足りうる。」(注8)とまで言っている。さらに、「市場ならば、それがいかに小さく不完全であろうとも、個人の利己心に社会的な有用性を与えることができる」(注9)として、個人の利潤動機が社会にとって有益になり得ることを説くのである。このように、自由で機能する社会は、ある個人が自由で機能する組織における仕事に取組むことで実現できると考えるのであった。
GMを調査する中で、ドラッカーは、「自由で機能する組織の概念」(「マネジメント」の基本的な考え方)を組み立てていったといえる。「分権制は、集権制に比べて、市場とコストの評価を受ける」「組み立てラインは、一人ひとりの自己実現を阻む」「能力が評価される場がない」などの調査結果を得るのである。これらの知見は、ドラッカー「マネジメント」の最初の体系である「現代の経営」(1954年)となって、実を結ぶことになる。

■「唯一絶対の組織はない」が組織構造の原則はある

ドラッカーは、「マネジメントは、神学ではない。臨床的な体系である。マネジメントの値打ちは、医療と同じように、科学性によってではなく患者の回復によって判断しなければならない」(注10)簡単に言えば、うまくいくか、いかないかである。組織についても同じである。唯一絶対の組織などあり得ない、とドラッカーは言うのである。
一方でドラッカーは、組織構造に欠くことの出来ない3つの要件を挙げる。(注11)第一に、組織構造は、事業上の成果を上げるためのものであること。組織の目的を実現し成果をあげるために直接働く人の数を多くして、管理的な人の数は最低にする必要がある。また、明日の事業に対する仕事の意欲と能力を育てるものでなければならない。第二に、マネジメントの階層の数を最小限にすることによって、命令系統を最短にしなければならない。ドラッカーはこの例として、カトリック教会を挙げている。このヨーロッパの最古にして最大の組織を成功させている組織構造は、ローマ法王と司祭の間にある階層は司教しかないという。第三には、組織構造は、明日のトップマネジメントを育成しその評価を可能とするものでなければならないという。これも特筆すべきことだが、ドラッカーは従業員に対して若いうちに、小さくても良いから独立した事業全体をマネジメントする能力を養うことのできる、責任ある役割を与えることの重要性を説く。これは自分の組織の重責を担うマネジメントを、外部から連れてきて任せるという発想とは相容れない。

■MOTリーダーの役割

「マネジメント」の中で、「組織は自由であるほど、そこに働く者は強くなければならず、負うべき荷は重くなる。」(注12)とドラッカーは述べている。自由な組織を求めるあまり、責任からも自由であってはならない。組織の外に成果があり、受け手の評価を得ることが、第一の責務であることは、ドラッカー「マネジメント」の基点として自覚すべきことである。
<注の説明>
(注1)書籍としての「マネジメント」と、生涯を掛けて完成度を上げた「マネジメント」の知識体系の両方を指す。
(注2)「私がフロイトに紹介されたのは、8歳のときだった。...そのとき私は、フロイトと握手をさせられた。」(1)pp86-87.
(注3)小学生のドラッカーを教えた一流の教師として、ゾフィー先生とエルザ先生について述べている。(1)pp62-85.
(注4)赤旗を掲げてデモの先頭にいた13歳のドラッカーは、その隊列を離れて帰宅した後、「僕のいる所ではないってわかったんだ。」と母に答えた。(1)プロローグ.
(注5)(2)初版への序文。
(注6)(2)p9. 
(注7)(2)p224. 
(注8)(2)p224.
(注9)(2)p239. 
(注10)(2)p270.
(注11)(2)pp18-23.  
(注12)(4)p207.
<参考文献>
(1)「ドラッカーわが軌跡」1979年。P.F.ドラッカー著、上田惇生訳、ダイヤモンド社。
(2)「企業とは何か」1946年。
(3)「現代の経営(下)」1954年。
(4)「マネジメント(中)」1973年。


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